20年の重み
私は今から24年前に脱サラをして事業を始めた。
小さなネイルサロンを作った
場所は横浜の日吉だった。
当時ネイルサロンは珍しく、近隣に店舗は全くなかった。一方でネイルサロンという存在や知名度もほとんどなかった。
誰もやっていないニッチなコンテンツと言えば聞こえは良いが、
「何をやる店なのか?」というレベルから始める事は大変な事だった。
経営コンサルタントは、「誰もやったことが無いニッチ産業に新規ビジネスの商機がある」という。
分かってない。素人レベルの発言。
ニッチ産業には、マーケティングに費用と時間が膨大にかかる事を。
当社のような資本が無くスタッフもいない小さな会社がやるべきことではない。
ハイブリッド車のプリウスが成功できたのは、
「ハイブリッド」というシステムを広告・認知させる事が出来る大資本・経営資源規模のトヨタ自動車だからであり、
もし最初に販売したのが予算が無いベンチャー企業であれば、車を宣伝する前に「ハイブリッドシステム」を認知させる広告宣伝費だけで失敗した可能性が高い。
当時はネイルサロンというお店の浸透も同じだった。
店舗の宣伝より、ネイルという「コンテンツの浸透」が最初の仕事になる。それは莫大な資本や時間がかかる。
「ネイルサロンって何?」という世の中の浸透レベルから始めたからだ
当社はお金が無いので、数名のスタッフと、駅前で毎日のようにビラを撒き、雨の日もポスティングを行った。
店舗も数年経過して何とか軌道に乗り、店舗拡大の為、場所を現在の場所に移動した。
エステサロンとネイルサロンを融合させた女性美容に特化したお店だ。
地上と地下1階の2階のフロアーを使い、個室2室、フット3席、ネイル4席の地域一番大きな店舗。
店舗スタッフも最盛期は常時8名以上で賑やかだった。
多くのお客様に来ていただいた。タレントさんにも来店して頂けた。
時代は流れる。20年の時間が経過した
いつしか、廻りにはネイルサロンやエステサロンは溢れはじめた。
新規店舗は集客の為に採算無視の価格設定に走る。価格のダンピングは止まらない。
仕事をしても売上が低いので、スタッフは薄給で仕事を強いられる。
そんな業界になってしまった。
当社の様な売上と、本来払うべき人件費・経費を鑑みた「適正価格」では競争力が低下し商売が難しくなった。
いつしか多くの店が淘汰され、価格は正常価格に戻るだろう。
しかし私のお店もその前に選択の時が来た。
この店は私の原点。
商売柄、いろんな店舗のスクラップアンドビルトを繰り返して来たが、このお店は別格だ。
何か月も悩んだ。何年も悩んだ。
今後はイトーヨーカドーと歩む事をきめた。それは路面店を撤退しヨーカドーテナントとして歩みを進める事。
単店ブランドでの展開よりIYの美容サロンとした方が、将来への事業発展の可能性は高い。コロナ禍のような有事にもリスクが少ない。
・・・・・・・・・・・
最後の営業終了後に日吉店の従業員全員を前に話した。
自分に自問自答しながらスタッフに話した。
「このお店は赤字がまだ少ない。本当はまだ続けられるかもしれない。
しかしお店のスタイルが時代に合わなくなった。今のままなら将来の展望も見えない。
次への歩みを続けるために撤退も仕方がないと考えた。
厳しい時代にこの店舗を続ける事より、会社を守る事、従業員を守る事も経営者の仕事。ノスタルジーに左右される訳にはいかない。
今後は皆も他店への勤務を強いられる。
それでも今はこの方法しかない。
どうか分かってほしい。
悔しいのは君たちだけではない。創業地であるこのお店が無くなる事は、私の原点も無くなる事になる。
この店への思い入れは誰よりも強い。
最終的に撤退という判断をした私は無能な経営者だがどうか許してほしい」
スタッフがこう言ってくれた。
「コロナ禍でも解雇しない事をスタッフ一同感謝しています」
もうこれ以上言葉が出なかった・・・
無念だ・・・・
切なすぎる・・・
今は時代に流される無力さと、何とか改善できるまで至らない対応力の無い自分を恨む事しかできない。。
だからこそ負けません。
ここでの思い出や経験は、全て当社の・私の・財産になりました。
関わってくれた皆さんのおかげです。
20年の歴史が「ここで終わる」のではなく、この経験と時間を礎に「ここから新しい始まり」にしたいと思います。
ルフラン日吉店を
今までご愛顧頂いたお客様。
そして関係各社。
一緒に汗を流してくれたスタッフ達に感謝します。
ありがとうございました。
株式会社 ルフラン
代表取締役社長 日向敏之
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2020年12月30日付