「働く」という事
人間生きていく為には、食べなければなりません。
昔の人類は、「狩り」に行って食料を確保する必要がありました。
現代の人類は文明がありますので、「働く」事で金銭の対価をもらい、それで食料を購入するシステムに変わりました。
しかしどちらも食べる為に「働く」という構図は変わりません。
では、「働く」という事が生きていく為に不可欠であるならば、「働く」という時間をどう考えれば良いのでしょう。
成人すると、人生の大半を「働く」という行為の為に時間を消費します。
「朝通勤して、会社で働き、夜帰宅する。」
人にもよりますが、日本人は1日の半分以上の時間を「働く」という事に消化しているのです。
食べている時間より、趣味をしている時間より、睡眠してる時間より、「働いている」時間が長いかも知れません。
「生きていく為(食べる為)に働いている」はずですが、こんな長い時間働いていると「働くために生かされている」ような気がしてしまいます。
「働くために生き続けている」といわれると、悲しい気持ちになります。
でも、角度を少し変えて見てみてみましょう。少し気持ちが変わるかもしれません。
「生きていく為に働いている」と考えてしまえば「仕事」という概念は自分の人生においては本来望んでいない時間であり、自分にとっては時間の浪費でしかありません。
ただ「食料を確保する為に自分の時間を提供している」となるわけです。
一方で「働くために生きている」というと、強制労働のように聞こえますが、
「働く」という事が自分の人生で充実している時間であればどうでしょう?
その充実した時間を享受する為の行為が「働く」という行為ならば?
充実した時間は、楽しい事や愉快な事だけではありません。辛い事や悲しい事や苦しい事などのネガティブな事もあります。
しかしネガティブな事案も克服する事で、それでしか感じる事が出来ない充足感や満足感が得る事が出来ます。
苦労した人間だけが分かる世界観が拡がるのです。そしてそれは大きな自信になり人間的にも成長出来る事になるのです。
仕事で充実している時間は、決して上司や会社から与えられるものではありません。
仕事の中に「充実」を見つけて自分で感じる事しか体感できません。
そしてその充実した時間をより良い物にしようと考え、自分の行動が伴った時に、
良い仕事が出来て、社会に還元出来て、そして最終的に自分に還元されてきます。
もしそれが自分に還元されないと感じるのであれば、団体に所属するのでは無く、自分で仕事を起すべきです。
同時に、仕事に充足感が無い場合も同様です。
もし「食べる為に働く」と考え続けるのであれば、仕事に充足は求めずに、労働環境や自分が置かれている状況に満足すべきです。
「働くために生きている」のも悪い事ではありません。
お金持ちや企業創業者が大成功しても、高齢になっても働き続けるのは理由があります。
自己顕示欲が強かったり、トップとして多くの人を傘下に置きたいからではありません。
苦労や悩みが多いはずなのに、実際はその時間が自分の人生中で一番充実していて、
刺激的で楽しい時間であると気が付かされるからです。
自分の一生の時間は限られています。無限ではありません。
私は「働くという事」は自分の人生の中で多くの時間を費やす以上、出来るだけプラスに作用する時間にすべきであると考えています。
だからこそ夢や希望や未来や幸福感を託せる仕事で「さまざまな刺激に溢れて働く」ことが重要なのです。
「そんなの理想論だよ」という人がいます。ならば理想を求めて考えと行動を変えてみればいいと私は思っています。そして実現すれば良いだけの話です。
年齢や状況は関係ありません。何時からだって出来るはずです。
それらを放棄した人達には、この文章で「働く」意義は、「労働は対価」(給料)という価値観だけで捉えるしかないでしょう。
働くという事は、充実した時間では無く、対価の為に時間を提供する事であると・・
皆さんは働いている時間は充実していますか?
次回へ
2018年05月15日付